育児中に限らず、食事の準備は大きな負担と化すことがあります。ましてや共働きが推進される現代社会においては、ほとんど不可能な事なのかもしれないと思うことがあります。
夫婦で協力していてもどうにもならないとき、或いは、どうにもならなくなる前に出前を取ってはいけないものでしょうか。きちんとした食材なら常用しても悪いとは思えません。
出前はお金がかかるが、助かることがある
ここで言う出前には幾つかの種類があります。
昨今は、フードデリバリーとでも言い換えた方が現実味があるでしょうか。
かつてはたくさんの個人食堂があり、そこから多くの出前が行われていました。もちろん今でもそういうお店は残っています。
出前とは一口に、ピザや寿司のことを意味するのではないのです。
ここでは主に、食堂の出前のことを言っています。
丼
例えば、丼です。
カツ丼をはじめ、ソースカツ丼、親子丼、マーボー丼などのことです。
ご飯を炊く必要もなく、人数分の丼が届きます。
昔はどの家庭にも電話の近くに出前のメニュー一覧表が置かれていました。
みんなそれを見ながら電話で注文していたのです。
すると、時々いつになっても来ないものですが、ある程度の所で持ってきてくれたのです。
丼の回収もしてくれます。
丼ですと栄養が偏りますので、その場合は野菜だけ刻むなどハイブリッド型にすれば安心です。
また出前の素材を気にする方もあるかと思います。商店街であれば、個人経営の食堂の出前の食材は、ほとんど最寄りの八百屋さんなどで仕入れているはずです。または市場に直接仕入れに行くかです。
※因みに写真のソースカツ丼にはキャベツが敷かれていません。ある地域ではこれがスタンダードなのです。しかし、キャベツがないのは認めない!などと言う人もいます。これは夫婦げんかの種にもなるでしょう。夫婦喧嘩とは答えのないことをやり合っていることが多くはないでしょうか。
自営業の味方
実は、商店街があるところに食堂は必ずといっていい程存在します。商店で働く人は皆食堂のお客さんになるかもしれないからです。
また、商店の人にとっては食堂がお客さんでもあります。
このような在り方は、現代社会では段々消滅しています。ご存知の通り、郊外に大型モールなどの進出を推奨したためシャッター街と化したのです。
ですが、それでも食堂を続けている人もいますから、電話帳などで調べて聞いてみると出前も行っているかもしれません。
自営業というのは夫婦共働きでもあれば、一家総出で働くスタイルです。その場合、誰かが食事を作らなければなりませんが、どうやってもまわらないときがあります。そんな時、出前なのです。
母親が作るべきなどという考え方は自営業一家には昔からなかったのではないでしょうか?(確かに作らない、作れない人もいます。また、裏方とかいう考え方もあります。)
自営業者における食事は「まかない料理」の当番制のようなイメージが近いかもしれません。年季の入った食堂は他を寄せ付けないエクセレントな領域に達していることもよくあります。
月に1度の贅沢でも良い
また、定期的に意識して出前を挟むこともあります。
これは疲労が蓄積する前に、出前で軽減する効果が期待できます。
そして出前はどこか希望を感じる食事なのです。ホクホクのカツ丼やカツライスに福神漬けなどを見るといつもと違う気分に浸れます。
ある種これは、良く働いた後の打ち上げパーティーのような意味合いがあるのです。
豚カツをわざわざナイフとフォークで食べるのですから味わい深いものです。
また外食となると、身なりを整えなくてはいけないなどと気を使うかもしれませんが出前ではその心配はありません。
まるで金で解決しているようで、気が引ける?
出前はそんなに後ろめたい事ではありません。
ピザを連日頼み続けるのはミーハーすぎると言えるでしょうが、出前はむしろ働き者の象徴のようなところさえあります。
それは労働の合間の食事なのです。
育児期間は有事のようなものとみなせば、出前は合間の食事なのです。
たぶん、出前を長くやって来た食堂の方は、その辺をご存じなのではないかと思うのです。
何かを応援するような気持で出前に勤しんでいるように見えてなりません。(おそらく、出前文化が暮らしを支えていた!?)
政策で出前チケットのようなものを配布してはどうかとさえ思います。チケットで支給されれば、出前を取る罪悪感も減るわけです。現金で支給されたらそうは思えないわけですから。
むしろ食堂に挨拶に行く
なんでもかんでも「契約」がはびこる社会に変わりつつあります。
この感覚だと、確かに金で解決した風な、まさにそんな後味を残しかねません。
しかしながら、出前を持ってきてくれる方は本来、同じ地域社会に生きる仲間同士なのです。
現代社会では、面識はなく、「金とサービスの授受」だけが信頼を保つ手段になってしまおうとしているのです。
そこで、もし個人経営の食堂が残っているのなら、何度かそこに食べにゆき、挨拶を交わしてはどうかと思う次第です。現代人の流儀と逆行するでしょうか?
だいたいはかつねの社会では、子供の同級生のお父さんが経営していたりしていたわけです。
物騒な世の中になりましたから、妙に接点を作りたくないというのも妥当な判断です。
信頼できる出前人が見出されることを願ってやみません。
まとめ
出前はかつての日本社会が構築した社会的インフラだったように愛おしく見えてきました。
変動する社会の中で、今何が変わっているのか、変わっているが故に何かが見過ごされていないかを時に点検することは重要ではないかと思えて来ました。
共働き社会の中で子育てを乗り切る工夫に出前を挙げてはどうかと思っています。