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心理臨床オフィスまつだ

専業主婦が覚える罪悪感

思いつめた主婦 夫婦関係の悩み

専業主婦が行っていることを、時給に換算したら・・・などという報道を時々目にします。また逆に「主婦は働いていないので気楽でいい」などというセリフも時に耳にします。主婦が担っている事柄は、相当に大変なことばかりであると思いますが、やはり働いていないことは、気持ちの上で重くのしかかるものなのでしょうか。

どうやら、多くの罪悪感を抱きながら、生活を送っている面もあるのだと思います。

世間からのプレッシャーと主婦の罪悪感

罪悪感を覚える主婦

主婦の方が休んでいたりすると、どういうわけかプレッシャーをかけてくる人もいます。それは家族であったり親戚であったり友人であったりするわけですが、世間というプレッシャーも存在するでしょう。テレビでニュースを見ていても、あまり触れたくないような内容も出てくると思います。

子供も保育園へ行って時間ができたのだから、働いたり、もっと何か活動をすべきであると、そんな風に言われているような気持になる時もあり得ると思います。ここに罪悪感の生まれやすい環境があるのではと感じます。

それは誰かに指摘されたという体験をもたずとも、なんだか自分自身の中で気持ちがざわざわしてくるようなことで、このような場合、時間はあってもどこか落ち着かない感じが続くものではと想像します。

言わば、これらが世間に対する罪悪感のようなものでしょうか。世間から急かされているように感じることが結構あるものです。生活に必要な収入が確保されていたとしても、関係なく湧き上がる気持ちだと思います。

余談ですが、実際に世間からのプレシャーは以前より強化されているような印象を受けます。これも、高齢化問題と結びつきがあるようです。女性の社会進出などと謳う背景には、労働人国の確保という意図も見え隠れします。

主婦の買い物

買い物と言えば、我々が日常的に何気なく行っていることに他なりません。ですが、この買い物に罪悪感が関係してくる場合もあるようです。

町を歩けば、色々な物が売られており、時には新しいものに目をひかれることもあります。仕事の帰り道にコンビニによって何かを買って帰る人も少なくはないはずです。

また、流行りの本など見かければ、本当に読むかどうかもわからないままに買ってしまうこともあるのではないでしょうか。つまり、我々はいわゆる無駄遣いを結構頻繁に行っていると思います。

少しの無駄使いにも潜む罪悪感

しかし、主婦が感じる罪悪感の中には、こうしたちょっとした買い物も対象になることがあるのではないかと想像します。

自分で働いて収入を得たわけではないのだから、無駄遣いをしてはいけないとか、自分の興味にお金を使ってはいけないというプレッシャーを少なからず持っている人もいると思います。

また、例えば自分が使うシャンプーのように必要なものであっても、なるべく安い物を選ぶようにして、自分が使う物にかかる費用を抑えようとする意識が働く場合さえあるでしょう。主婦はお金を自由に使ってはいけないのでしょうか。

活動的でなければいけない

町内会

主婦には時間があるのだから、空いた時間は活動的で、有意義に過ごさなければいけない、とのプレッシャーを感じる人もあると思います。

しかし、それぞれには個性があり、誰しもが活発に動くことに充実感を見出すわけではありません。結婚前は読書が好きで、休みの日はいつも読書をして過ごしていた人もいるわけです。

主婦になったからといって、何かのサークルに所属して活動しなければならないわけではありませんが、ここにも、何か活動的な方が良いという世間のプレッャーの存在をなんとなく感じます。

ご自分の希望

色々な罪悪感に触れてきましたが、こうした罪悪感を抱えている際に、可能ならば世間はそのように言うかもしれないけれど、ご自分ではどんな風にお過ごしになりたいかをお伺いしてみたいところです。

実際、このようなプレッシャーに駆られて、町内会の役割を引き受けたり、働きに出始める人もいるのではないでしょうか。

しかし、せっかくできた時間なのだから、ご自分ではどんな風にお過ごしになられたいのかも聞いてみたいと感じます。

(確かに、自由にお金を堂々と使いたいという気持ちから働きに出る人も多いように感じられます。忙しい中働きに出るのは大変だけれど、気兼ねなく使えるという点は大きいのだと思います。)

どう生きたいか・在りたいか

こうした探求は、その後の生き方とも関係してくるように感じます。

もし子育てということに大きな価値を見出していた方は、いつか子育ての終わりも来て独立していくわけですから、どこかで自分の生き方を確認しておくことも、その後の人生を豊かにしてくれる可能性があるのではないでしょうか。

ここでいう確認するとは、何かをはじめるということではありません。

因みに、カウンセラーは色々なところに配置されて給料ももらっていますが、あまり仕事のない日もあります。ですが、その存在は重要だと思っています。ちょうど、火事が毎日起こらなくても、消防士さんにはいてもらわないと安心できないことに近いと思います。

そこに存在することが、実は誰かの安心を支えている可能性があるのです。

そして愚痴同様、こうした話をすることは、そもそもはばかられることかもしれません。その際には話す相手を選ぶことが必要となるのではないでしょうか。有無を言わせず、仕事をはじめるように話が進んでしまい、生き方を考えるどころではなくなってしまうこともあるでしょう。

まとめ

日本社会においては特にと言って良いかと思いますが、世間の目とは本当に気になるものです。

無視したくとも心の中に沸きあがって来る罪悪感があるのかもしれません。

自分の在り方を自分自身が肯定できたら、その罪悪感も少しは薄れて行くのかもしれません。

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