どっちがいいなどというタイトルそのものがナンセンスです。
非常に難しい話になりますが、どちらもそれぞれの味があることは確かです。
世間では、おそらく、外向的な方が良しとされ、得と見なしている人が多いのかもしれません。しかしながら、内向的な人が劣っているなどというわけではありません。
内向的と外向的ではどっちがいいの?
昨今の教育などからも感じ取れることですが、意見を主張する力を付けたり、多くのコミュニケーションを取ることを目指そうとする意図があるのではないでしょうか。
グローバル化なども進んでいますので、世界を意識しての事なのでしょうか。しかし、誰もかれもが外交的な世の中とはどういう空気になるのでしょう。
内向的な人がいるから意見もまとまったのでは
ディスカッションを例にとると、だいたい、発言量が多い人と少ない人とに分かれるものです。外向的な人の方が意見は活発な事が多いと思います。
ディスカッションですから、発言量が多い方が、なんとなく良いことをしているように見えますが、その意見の妥当性は全く別な話です。
ところが、なぜか、意見を言った人の言う事がもっともらしく聞こえて採用されてしまうこともあります。確かにこのような時、内向的な方は損をしていると言えるでしょうか。
もし、全員活発な意見をし始めたら、話はまとまるのでしょうか。発言量はとてつもない量になりますが、着地点を見失いそうです。内向的な人が混ざっていてくれるからこそ、議論は終着しやすいとも言えないでしょうか。
時々実のある内容を挟めるくらいの内向性のある人は非常に貴重と言えないでしょうか。外交的な人が発言している時にも、内向的な人は熟慮して、物事の本質を探しているのです。
発信しなければ存在しないのと同じではない
外向的な人からすると、発信しなければ存在しないのと同じと捉えられることもあるでしょうか。(外向的な人が悪いなどと言っているわけではありません)
例えば、何かの発表会で、ギターの演奏を求められるかも知れません。「せっかく練習しているのだから、人前で演奏しなければ意味がないよ!」などと言う人もいます。その人にとっては、楽器演奏は人に見せることとか、他者からの評価を得ることが主目的なのではないでしょうか。
しかし、ギターを弾く人には、別な思いがあるに違いないと感じています。自分自身の精神性を探求するために弾いている方は多いのではないでしょうか。
その場合敢えて人前で演奏する必要はないのです。演奏する機会があるとすれば、それは付き合いか、多少の評価を得たい気持ちになった時か、自分自身への試練のような意味合いではないでしょうか。
ギターを弾く意味も人によって異なるものです。
フォークシンガーが何かの番組で語っていましたが、「女性に好かれたいから弾いた」というようなことを言っていました。このような目的の場合、恋人ができたり、結婚すると、ギターを弾く意味を見失ってしまうようです。
タイプの違いであり、自信をもって自分のスタイルを構築する
それぞれのタイプがあると考えれば、納得いくでしょうか。
全員が、外向的を目指す必要はないのです。それに、外向的になるにしても外向的になっていくプロセスもそれぞれなのです。
仮に、内向的な人が外に出て行こうとするなら、焦ってはいけません。まずは、徹底的に自分を固める時間を設けてみてはどうでしょうか。
先ほどの、ギター弾きに持論をぶつけられた時、どう返せるでしょう。これが固まっていれば外に出ても自分がブレることはなく済みそうです。そうでないならば、滅茶苦茶にされ自分のスタイルを壊されてしまう危険性があるのです。
外向的な人の方が人生を楽しんでいるように見える
最後に、この問いかけに考えを付け加えたいところです。これは誰かを非難しているのではありません。内向的な人に花を持たせる意味でもわかりやすく書いています。
外向的な人は外に外に広がっていきます。内向的で繊細な感性をもった人はそうはしません。
一応、外向的な人を尊重する意味で書いておきますが、外向的な人からすれば、内向的な人がもたもたしてるから話が進まないんだと怒るでしょう。
ここまで突き詰めると、価値観の違いのように見えてきます。
人生のどこに・何に価値を覚えるのか、そういう話に見えます。
だとすれば、内向的な人は慎ましやかな畏敬の念をもって生きているような人と言えるでしょうか。外向的な人は、冒険家のような挑戦者的世界観を感じます。
たくさんステーキを食べることに楽しみを覚える人もいれば、一杯のお粥に尊さを感じることもあります。
まとめ
私自身が内向的なため、内向的な人びいきな内容になってしまいましたが、決して外向的な人も悪いものではありません。
それぞれのスタイルを構築出来たら良いのではないでしょうか。