飲食店などのテーブルには、時々アンケート用紙を見かけます。
接客態度に関することであったり、料理の内容に関するものだったように記憶しています。
滅多に記入するような機会もありませんが、あのアンケートには、きっと人それぞれの意見が書かれてくると思うのです。
意見箱の中身は・・・もっと塩味を濃くして欲しい
例えば塩味ですが、もっと濃くしてほしいという人もいれば、塩加減が強すぎる、などこれは好みによるものでしょう。
仮に、もっと濃くしてほしいという感想が大多数だっとしても、少数の方にとっては
味が濃すぎて食べるのが大変になってしまいそうです。
やはり、ここでも全員の希望に等しく応えることは難しいものです。
最も大変そうな例としては、もうちょっとだけ塩加減を強く、とか、いややはり前の
方が良かった、などと意見があちこち行ったり来たりする場合への応え方です。
一つ一つのことに真剣に向き合っていただける態度には敬意を払いたい気持ちですが、もしかしたら、もともとの塩加減はもうどこかへいってしまったのではないでしょうか。
そうなると、総合的な他の小鉢やサラダなどとの調和も崩れてしまいそうであります。
意見を言う人は責任を持たないことも多い
意見を取り入れるという事は、かなり慎重にやった方が良いのではないかと、そんな風に思うところです。
また、意見を言う側もその後のフォローをする人とは限りません。
意見を取り入れたのちに何かの問題が起きても、はじめに意見を言った人が責任を取るわけではないのです。
それは、実際にそれを行った人が責任を問われることになる場合がほとんどでしょう。
こんなとき、意見を受けた側の人は言い知れぬ怒りを覚えることになるのではないでしょうか。
カウンセリングの場合も主体はカウンセラーにない
この話はカウンセリングにも通じるところがあります。
カウンセリングでは、カウンセラー側が何かの答えを押し付けるという態度は、当然ながら良しとされません。
カウンセラーがその人の人生を決めるわけではなく、自己決定や自己解決を援助する存在とされます。
どんなにもっともらしい意見を述べたとしても、その人が生きている現実の中で、その人にとっての有意義なものでなければ意味をなさないことがほとんどです。
わかりにくい言い回しですが、そもそも意見を言う側が持っている認識と、意見を受ける側の認識は同じではないのです。
しかもどちらが正しいという議論はカウンセリングの場では特に意味をなさないものです。そのため、カウンセラーが自分の意見の正当性を幾ら述べてもこれもあまり有意義とは思えません。
まとめ
ある一つの考え方として、「相談相手を選べたらかなり良い!」とするものがあります。
その相談を一体、「誰」にするのか、これはかなり重要な事なのです。