兼ねてより、ホームシックという日本人にも馴染みのある外来語があります。
進学や就職のタイミングなどで多くの人が経験した感覚だと思います。
しかし、このときの寂しさとはまた異なった寂しさが到来することもあるものです。
社会人になってからの寂しさは以前のものとは違うかもしれない
社会人になりたてや進学との時とは違う寂しさがあることに、薄々感じ始めている年代の方もあるでしょうか。
別に、お母さんが恋しいとか、お化けが夜中に出るかもしれないので怖い・・・というものではないようです。母親が恋しいはどんな年代にもときどき訪れるかもしれませんが・・・。
この寂しさは一体どういうことなのか?
概ね自分の存在に関する寂しさではないでしょうか。
つまり、武田鉄矢の歌とは違いますが「だいぶ遠くまできたものだ・・・」というような感覚かもしれません。
それは、物理的な距離ではありません。人生をよくはるばる歩いてきたという距離の話です。
これは、よく頑張ってきたじゃないかと喜びたいところですが、人間どうしてか寂しさが混入するもののようです。
成長の喜びと同時に寂しさが過ることがあることを、多くの人が実は知っているはずです。
それは、卒業式だったり、結婚式だったりします。これは、別項で触れています。
確かに人生は切ない
確かに人生は切ないものと言いたくなる時があります。
それが生きる事なのだと、思い切って生きることが人生なのでしょうか。
この寂しさを、自然な趣ある感覚として受け止めて生きるのも一つなのでしょう。
一人暮らしのインフルエンザは強烈な体験になり、人生を考えることもある
インフルエンザは馴染み深いことではありますが、よくよく考えてみるとライフイベントの性質を備えているように思えます。インフルエンザをきっかけに生き方を考えた人もいるのではないでしょうか。
もし、風邪をひいたとしても市販の薬や栄養剤を飲んで出勤や登校することがあるでしょう。時には体調がいまいちのときや風邪をひくようなことがあるものです。ちょっとしたものであれば、帰宅する頃には薬を飲んだことさえも忘れてしまうくらいではないでしょうか。
それは、忙しい日常を送っているということを意味しているとも考えられますが、それほど生き方に触れるほど意識にのぼることではないでしょう。
ところがインフルエンザの場合、まず出勤や登校はできなくなります。もちろん高熱や各種不調のため仕事どころではなくなってしまうのですが、這って職場に辿り着いたとしてもすぐ帰されることになります。(いや・・・、職場から帰されないということもあるでしょう・・・)
インフルエンザと労働者の一人暮らし
インフルエンザにおいて特筆すべきは、独り暮らしとの関係です。
例えば都会に暮らす人がインフルエンザにかかった場合、買い物を自分で出掛けねばなりません。高熱の中の買い物は簡単なことではありません。
そして、テレビなど見ながら過ごせばいいなどと考えると上手くいかないものです。だいたいの場合、気分がすぐれずテレビどころではないでしょう。
また、高熱の場合、病院を考えると思いますが、不慣れな土地ではどこに病院があるのかさえもわからない場合があります。
さらに、病院がわかったとしても、病院まで出かけるにはどのような手段を用いてよいものか迷います。歩ける距離であるのか、電車で移動が必要か、タクシーに乗ってしまうのは運転手さんに申し訳ないのではないか・・・などと迷うところも多いように思います。
子供の頃なら、お父さんが車で連れて行ってくれたのでしょう。こんなとき自分がいかに多くの人の支援(ソーシャルサポート)を受けていたかに気づかされるものです。
インフルエンザの際の心細さ
インフルエンザの薬を飲んでみたものの、本当に熱が下がるのだろうか、また夜中に上がってしまわないだろうか、食べ物は間に合うだろうか、水分が足りないのではないか、変な夢を見た…インフルエンザにかかっている時には、体の不調のみでなくこうした心境も伴う中で過ごしているわけです。
こんな時に実家暮らしにすれば良かったかな…と考えがよぎる人もあるのではないでしょうか。ギリギリの生活をしていた人が、温存することを決意することもあるかもしれません。
これをきっかけに、大きな生活の転換を持つ人だっていると思います。
働くことの背景には、常にその人自身の人生があります。人間誰しも風邪もひけば冴えない日があるものです。しかしながら、一度職場に出れば、「それはプライベートなことですから」と自己責任のようなセリフが待っています。
従業員は家族であると言っていた時代もありましたが、現代社会においてはそれも段々と薄れています。出社できるのか?できないならいつになるのか?診断書はもらったのか?などと実務的なやり取りがあるばかりです。
インフルエンザは生き方を考えるような大きなイベントになる可能性を持っていると思います。
望む人生の方向性
また、根源は近いかもしれませんが、少し発想を変えると、「だいぶ遠くへきてしまった・・・」は、「思いがけずに遠くへ来てしまった・・・」という、方向を見定めるための寂しさであっても良さそうです。
やはりここでも物理的なことを言っているのではなく、人生の方向性のことを指しています。
この場合は、少し嘆きの意味が強調され、望む方向性への軌道修正をはかるタイミングとなりそうです。
友人や知人らに取り残された感覚
また別なことになりますが、他者との比較の中で寂しさを覚えることもあります。
わかりやすいところでは、友人のあいつぐ結婚はどうでしょうか。
結婚後は益々疎遠になっていくことがよくある話です。
また、連休には知人たちは飛行機に乗ってでもどこかに出掛けて楽しそうにしているのに、自分だけ布団をかぶって終わったしまうような時、これも堪えるでしょう。
本来、過ごし方は自由なはずだとわかっていても寂しさを感じずにはいられないときがあるものです。
自分の人生がみすぼらしく感じられてしまう時
こんなセリフに、何を感じるでしょうか。女子会でありそうな話です。
場合によっては、今までの自分の人生を否定されたかのような思いに至る可能性があります。
激しい怒りを覚える方もあるでしょう。一体、この10年真剣に取り組んできたことになんの意味があったのか・・・。
むしろ成長した証としての寂しさもある
何かの道を究めた人を想像吸う時、一つの苦悩が思い浮かびます。
それは、その境地を共有できる人がいないという寂しさです。
手塚治虫の代表作「ブラック・ジャック」においてもこの苦悩とおぼしきものが時々登場します。
天才外科医ではなくとも、10年を仕事をしたら、その業界についてはかなり詳しくなりますし、だいぶ板についているものでしょう。ですが、その話は実家の両親にしてもチンプンカンプンなのです。もうお父さんやお母さんには話が通じなくなってしまったのです。
だからこそ、成熟の果てに「自分の家庭を築き上げたい」という思いが湧き上がるのかもしれません。
一人暮らしの孤独を癒すにはどうしたら良いのかを考える
月並みなものを並べ立てるだけでも、何かの手がかりにしていただけるかもしれません。色々な角度から検討します。
コロナ5類移行前に比べれば、断然動きやすくはなっていますので、対策も多様になるでしょう。
習い事をはじめる
タウンページなど開いてみると、たくさんの習い事があることに気づきます。
人がいる場所に出て行くことが苦にならないのであれば、自分に合った習い事を探すのも一つでしょう。
例えば、こんな展開があります。
習い事は先生と1対1のレッスンで、先生以外とはなんの交流もなく友達はできそうにないなぁと感じていたAさん。
しかし、日によっては練習スペースで自由に練習できるので、そこで同年代の人と挨拶を交わすと談笑してしまいました。これをきっかけに、段々と知人が増えたのでした。
お金がない場合には、公民館や生涯学習センターのような場所にも習い事情報があります。
なんらかの会合に参加する
習い事は定期的な活動になりますが、そうした時間がとりにくい方もいます。
その場合は、単発のなんらかの会合・イベントなどを代わりとします。
例えば昔ながらの謝恩会です。出会うのは職場の人ばかりですが、何かのきっかけになる可能性があります。
勉強会に参加する
今感じているその孤独は、人との付き合いが少ない・ない、ということばかりではないかもしれません。そうではなく、思い切り意見をぶつけられる相手がいないという孤独感もあります。
この場合、古い知人に会ってもその孤独は癒されないでしょう。
同じような志を持っていたり、苦境に立ち向かっている人々があつまる会に参加してみるのも一つです。勉強会の後には懇親会が開かれたりもします。
個人経営の店を利用する
全国的にもはやチェーン店ばかりです。チェーン店では、雑談ができないのです。
もしちょっとした町の会話を求めているなら、買い物先を個人店に変えてみるのはどうでしょうか。
動物と触れ合う
動物には気をつかいすぎることはなかなかありません。
その辺にいる猫でも鳥でも試しに遊んでみると、何か癒された感じがするかもしれません。
もしかすると、現代社会に身を置く中で、本来の無邪気な感覚を押し込めて過ごさざるを得なかったのかもしれません。これもまた孤独感に通じるところがあるように思います。「もうはしゃいだりしちゃいけないんだ」という類の寂しさです。
そういう意味では、動物には気兼ねなく遊べるのです。
人の家の猫かと思うと気が引けるので、野良猫に話しかける方が気楽でしょう。
快適に籠る
外向きではない方向の在り方もあります。
むしろ、なるべく自分の生活圏での快適度を高めることです。コーヒー豆はあそこの店で買うなどとしてお気に入りのスポットを挙げ、自分だけの小宇宙を形成します。
「居心地」と「孤独感」、ここに関係があるかどうかはわかりませんが、内的な世界を耕すという意味ですから、心が豊かに満たされていく結果、もしかすると孤独感にも影響する可能性がないでしょうか。
最近では、着るコタツなどという製品も開発され巷で好評を得ている模様です。
あのような製品は籠る生活を豊かにしてくれそうです。
満足感の高い交流時間を設ける
アクティブな人は、とにかく色々な人と出かけてディスコなどに出掛けようとしますが、果たして人間関係から得られる満足度とはそういうものだけでしょうか。そうではないことは多くの人が知るところです。
現代社会においては、「じっくり目の時間」が減っている可能性はないでしょうか。よくあるのは、散々待たせた挙句、少しだけ話をしたらどこかに行ってしまう友人です。こういう交流は寂しさの方が強く残ると思います。
だとすれば、まだ会わない方がましだった可能性があります。
終わりのないティーパーティーを開催する
タイトルはさておき、例え豪華な食事ではなくとも、2時間ほどのティーパーティーでも大きな満足感を覚えることがあります。
これはほかのことに気を取られず、じっくりと友人と語らい合った時のような時間を指しています。
一つには、何かのついでではなく、その日のために、その時間に終結した者同士が過ごした濃度の高い時間だったためではないでしょうか。
もちろん、全てを語りつくすことはできません。だからこそ、また会いたいという余韻が心地よい位に残るのです。しかし、満足感が高いため、そんなに頻繁に会おうという話にはならないのが面白い所です。最高の紅茶を飲んだらその満足感から、しばらく紅茶は飲まないのと同じでしょう。
又、ティーパーティーではありませんがコロナ前にスナックに通う女性達が話題になりました。
会社ではコンプライアンスばかりが強くなり本音を言える場所がなくなっているのかもしれません。
これでいいのだ!自分のこれまでの選択に自信を持てたら
寂しさを感じた時、都会の喧騒に紛れ込んだとしても、むしろ孤独感は強調されるかもしれません。現代社会の滑稽なところですが、たくさんの人がぶつかるように歩いているのに、それは皆他人です。よくて気配を感じられる程度の癒しにしかならないかもしれません。
全てが無駄だったなどというはずはありません。結婚しない人生もあれば、働かない人生もあります。
以前、こんな物語を書いてみたことがありました。下記リンク先から表紙に飛びます。そこから第1話「Bさんの迷い~後輩から届いた招待状~」を読み進めることが出来ます。
まとめ
孤独には、シンプルに一人でいることの寂しさという意味もあれば、もしかするともっと幅広く検討しがいのある意味もあるのではないでしょうか。
そのため、一概に孤独対策などということはできないもので、ここでもやはりそれぞれの個別性に添った内容が必要になるのではないかと思うわけです。人前でなど絶対にギターを弾かない人もいるのです。