兼ねてより、ホームシックという日本人にも馴染みのある外来語があります。
進学や就職のタイミングなどで多くの人が経験した感覚だと思います。
しかし、このときの寂しさとはまた異なった寂しさが到来することもあるものです。
社会人になってからの寂しさは以前のものとは違うかもしれない
社会人になりたてや進学との時とは違う寂しさがあることに、薄々感じ始めている年代の方もあるでしょうか。
別に、お母さんが恋しいとか、お化けが夜中に出るかもしれないので怖い・・・というものではないようです。母親が恋しいはどんな年代にもときどき訪れるかもしれませんが・・・。
この寂しさは一体どういうことなのか?
概ね自分の存在に関する寂しさではないでしょうか。
つまり、武田鉄矢の歌とは違いますが「だいぶ遠くまできたものだ・・・」というような感覚かもしれません。
それは、物理的な距離ではありません。人生をよくはるばる歩いてきたという距離の話です。
これは、よく頑張ってきたじゃないかと喜びたいところですが、人間どうしてか寂しさが混入するもののようです。
成長の喜びと同時に寂しさが過ることがあることを、多くの人が実は知っているはずです。
それは、卒業式だったり、結婚式だったりします。これは、別項で触れています。
確かに人生は切ない
確かに人生は切ないものと言いたくなる時があります。
それが生きる事なのだと、思い切って生きることが人生なのでしょうか。
この寂しさを、自然な趣ある感覚として受け止めて生きるのも一つなのでしょう。
望む人生の方向性
また、根源は近いかもしれませんが、少し発想を変えると、「だいぶ遠くへきてしまった・・・」は、「思いがけずに遠くへ来てしまった・・・」という、方向を見定めるための寂しさであっても良さそうです。
やはりここでも物理的なことを言っているのではなく、人生の方向性のことを指しています。
この場合は、少し嘆きの意味が強調され、臨む方向性への軌道修正をはかるタイミングとなりそうです。
友人や知人らに取り残された感覚
また別なことになりますが、他者との比較の中で寂しさを覚えることもあります。
わかりやすいところでは、友人のあいつぐ結婚はどうでしょうか。
結婚後は益々疎遠になっていくことがよくある話です。
自分の人生がみすぼらしく感じられてしまう時
こんなセリフに、何を感じるでしょうか。
場合によっては、今までの自分の人生を否定されたかのような思いに至る可能性があります。
激しい怒りを覚える方もあるでしょう。一体、この10年真剣に取り組んできたことになんの意味があったのか・・・。
一人暮らしの孤独を癒すにはどうしたら良いのかを考える
月並みなものを並べ立てるだけでも、何かの手がかりにしていただけるかもしれません。色々な角度から検討します。
コロナ5類移行前に比べれば、断然動きやすくはなっていますので、対策も多様になるでしょう。
習い事をはじめる
タウンページなど開いてみると、たくさんの習い事があることに気づきます。
人がいる場所に出て行くことが苦にならないのであれば、自分に合った習い事を探すのも一つでしょう。
例えば、こんな展開があります。
習い事は先生と1対1のレッスンで、先生以外とはなんの交流もなく友達はできそうにないなぁと感じていたAさん。
しかし、日によっては練習スペースで自由に練習できるので、そこで同年代の人と挨拶を交わすと談笑してしまいました。これをきっかけに、段々と知人が増えたのでした。
お金がない場合には、公民館や生涯学習センターのような場所にも習い事情報があります。
なんらかの会合に参加する
習い事は定期的な活動になりますが、そうした時間がとりにくい方もいます。
その場合は、単発のなんらかの会合・イベントなどを代わりとします。
例えば昔ながらの謝恩会です。出会うのは職場の人ばかりですが、何かのきっかけになる可能性があります。
勉強会に参加する
今感じているその孤独は、人との付き合いが少ない・ない、ということばかりではないかもしれません。そうではなく、思い切り意見をぶつけられる相手がいないという孤独感もあります。
この場合、古い知人に会ってもその孤独は癒されないでしょう。
同じような志を持っていたり、苦境に立ち向かっている人々があつまる会に参加してみるのも一つです。勉強会の後には懇親会が開かれたりもします。
個人経営の店を利用する
全国的にもはやチェーン店ばかりです。チェーン店では、雑談ができないのです。
もしちょっとした町の会話を求めているなら、買い物先を個人店に変えてみるのはどうでしょうか。
動物と触れ合う
動物には気をつかいすぎることはなかなかありません。
その辺にいる猫でも鳥でも試しに遊んでみると、何か癒された感じがするかもしれません。
もしかすると、現代社会に身を置く中で、本来の無邪気な感覚を押し込めて過ごさざるを得なかったのかもしれません。これもまた孤独感に通じるところがあるように思います。「もうはしゃいだりしちゃいけないんだ」という類の寂しさです。
そういう意味では、動物には気兼ねなく遊べるのです。
人の家の猫かと思うと気が引けるので、野良猫に話しかける方が気楽でしょう。
快適に籠る
外向きではない方向の在り方もあります。
むしろ、なるべく自分の生活圏での快適度を高めることです。コーヒー豆はあそこの店で買うなどとしてお気に入りのスポットを挙げ、自分だけの小宇宙を形成します。
「居心地」と「孤独感」、ここに関係があるかどうかはわかりませんが、内的な世界を耕すという意味ですから、心が豊かに満たされていく結果、もしかすると孤独感にも影響する可能性がないでしょうか。
これでいいのだ!自分のこれまでの選択に自信を持てたら
寂しさを感じた時、都会の喧騒に紛れ込んだとしても、むしろ孤独感は強調されるかもしれません。現代社会の滑稽なところですが、たくさんの人がぶつかるように歩いているのに、それは皆他人です。よくて気配を感じられる程度の癒しにしかならないかもしれません。
全てが無駄だったなどというはずはありません。結婚しない人生もあれば、働かない人生もあります。
以前、こんな物語を書いてみたことがありました。下記リンク先から表紙に飛びます。そこから第1話「Bさんの迷い~後輩から届いた招待状~」を読み進めることが出来ます。