最近ようやく歩きスマホが社会的に注目されるようになってきました。
中には条例化した区もあります。
歩きスマホはなぜ人をイライラさせるのか
条例化は様々な議論を呼んだようです。
素朴な所で、個人個人何か見ているだけでイライラした経験を持つ人は多いと思います。
ある青年のフィクション
青年は、別に急いでいるわけでもなく駅ナカを歩いていました。
駅には多くの人が往来しており、少し気を抜くと誰かにぶつかってしまいそうでした。
杖をついている方もいれば、ベビーカーを押す方もいます。
青年はいっそう気をひきしめて歩くのでした。
ところが階段を上ろうとすると、何か前の人がゆっくりとしていてまるで進みません。
杖をついているわけでもなく、若い方です。
どうやら歩きながらスマートフォンを操作していたようです。
その人は青年の存在には気づかず、とにかくゆっくりふらふらと階段を上るのでした。
階段を上る動きは予測不能
青年は左側から追い越そうとしましたが、なぜかタイミングよくふらふらっと左に体が傾き道をふさがれるのでした。
青年はついに「危ないじゃないか!」と怒ってしまったのです。
しかし、若者はその声にも気づかず、ふらふらとゆっくり階段を上るのでした。
回想:青年はなぜイライラしたのか
よくありそうな日常場面です。
ですがイライラする人は少なくはないと思います。
この場合、「危ないじゃないか!」というセリフそのもののように思います。余りに身勝手という憤りが感じられる一言です。
青年はもしぶつかってしまったとしても大事にはならないでしょう。しかし、ベビーカーや杖をついている方にとってはどうでしょう。
ましてや階段ですから大惨事になるかもしれません。
これは、回転寿司の話とはまた違う意味をもつエピソードです。
このような場合、ある種、怒りを覚えられる人の存在は社会において貴重となります。しかし、抗議したことにより逆に暴行を加えられるような別件もあり、葛藤を生むテーマでもあります。
誰がこんな世の中にしたんだ、俺は望んでいないぞ!
もしかすると、現代文明への怒りを背景にイライラしてしまうのかもしれないと思っています。
辺りを見渡せば、皆スマホを片手に歩いています。
こんな世の中は嫌だ!とそんな怒りを覚えている方もいるはずです。
人間への関心、ないしは目の前の人への関心が薄れている?ということなのか、どこかスナック女子のテーマとも重なるものを感じています。
その他の要因
この青年の場合は上記のようなことだったとしても、他にもいろいろなことが挙げられます。
他のストレスが積み重なっていた
例えば、ながらスマホが問題になる一つの舞台は駅です。
駅と言う場所は、ストレスの集積所のように様々な人が集まる場所です。また、電車そのものが大きなストレスを生み出している面もあります。
そのストレスの最後の止めが歩きスマホだったのかもしれません。
普段であれば気にならないという人はそれにあたるでしょう。
自分自身が脱スマホを志している最中だった
昨今、スマホ絶ちを志す人がいると聞きます。
スマホを使用しなくなるのではなく、不要時はカバンにしまっておくなどの使い方をしている人です。
このような人にとっては、自分と対極的な存在に思うところが出てくるはずです。
焦る思いを掻き立てられる
他者がなにかに勤しんでいる姿は時に人を刺激します。
例えそれが歩きスマホであってもあり得ることだと思います。
つまり、何かにその人が成果を出そうと焦っている時などに優雅にふらふらスマホをいじっている人が快くは受け入れられなくなるという事です。
もちろん、歩きスマホを受け入れる必要はありませんが、余裕のない時は尚更にということになるでしょう。これは集積したストレスの話とも近いことです。
急いでいる時
これも似たような話ですが、数分の差で遅刻するかもしれないときに気持ちは非常に焦ります。5秒でも無駄にできないと電車の中では前に出て扉の前で待機するでしょう。階段もスムーズに上りたいところです。
そんなとき、涼しげな顔をしてまるで周囲を気にしないスマホユーザーがいたら憎たらしく見えてくるのではないでしょうか。
これは逆の話も成り立ちます。
電車はどうせ早くはつかないのに、気持ちがせかせかしているためか、扉の前をうろついて険しい表情をする人を見かけるものです。
こんなとき、時間通りに移動できている人たちは「あの人せかせかしててなんか嫌だわ。こっちまでイライラしちゃ」などと思っている可能性があります。
やはり、色々な意味での「ゆとり」が必要なのでしょうか。
まとめ
時間というゆとりの他、経済的ゆとりも人の気持ちと関係してこないでしょうか。