もしもピアノが弾けたなら(1981)、こんなタイトルの歌が長く馴染まれています。
ご存知のように、西田敏行さんが歌った曲です。
多くの人が、もしも自分がピアノを弾けたらどんなに熱い思いを託せるかと思っている事でしょう。
言葉だけでは表しきれない気持ちを歌に乗せて歌う
思いを歌に乗せて歌う行為は時に多くの人が憧れます。
何かの思いを表現したいと思ってもそう簡単な事ではありません。
日本人家庭の押し入れの奥に一体何万本のギターが眠っている事かわかりません。
一度は自分で奏でようとしたその思いも、いつしか傷つき疲れ表現しきれず、そうやって皆眠らせている思いがあると思います。
絵が描ける人はそれを絵に託し、又、古来から短歌のように表現してきた方もあるでしょう。
行き場のない気持ちが浄化された
どこにも行き場のない思いを歌に乗せた時、その思いが浄化されていくかのように報われることがあります。
楽しい歌もあれば、悲しい曲もあります。
喜怒哀楽を歌ってきた歌手が日本にもたくさんいます。
国民的に愛された歌手はおそらく、その国の希望のように映っていたと思います。人生の苦労を労われたように感じる歌もあるでしょう。
曲を弾いているアーティストは歌っているかのように見える
ピアノでもギターでも、正確に弾くことが求められます。
ですが、その他に表現力が豊かなどと言われる人もいるわけです。
AIにも、正確に弾く以外の要素があるものなのでしょうか。表現力を定義し数量化すればそれらしくなるのやもしれません。
それはさておき、同じ曲でも誰が弾くかによってずいぶん受ける印象は異なるものです。
山下さんのギターなど聞くとその意味がよくわかりました。
人の歌を聞いても近い事が起きるが、やはり自分で歌いたい
どうしてもシンガーソングライターのように、自分で作詞作曲から演奏まで全部一人でこなさなければ報われないということもありますが、誰かがそれを代行してくれていることもあります。
歌謡番組など見ていて泣けてくるのはそのためでしょう。
自分が言いたかったことを誰かが思い切り歌ってくれていたら嬉しい事です。
ですが、やっぱり、「もしもピアノが弾けたなら・・・」と帰結するのでしょうか。
この辺りが非常にもどかしい所です。
改めてよく考えてみると、作詞作曲から全て自分で行えたら夢のようなことです。
「言葉」を紡ぎ、それを「メロディー」に合わせるのですから、これだけ考えても高等な話です。人によってはメロディーが先にうまれたりもするようです。
そして、次にそれを自分で演奏するわけです。ピアノのコードなど知っていれば伴奏はそれほど複雑でないものもありますが、弾きながら歌うというのはさらに同時処理を伴う行為です。
これらが一致したとき、確かに自分の思いを奏でることが出来たと感じるかもしれません。
「ピアノも自分で作る!」、「ピアノの原材料となる楓やスプルースも自分で育てる」という方もなかにはあるのかもしれません。
そこまではいかないとしても、少しでも自分の思いに近い音が出せるように楽器を調整するのです。
いや、あまり窮屈に考えすぎると、そもそもの思いから離れてしまうようであります。
また余談ですが、どんなに自分のお気に入りの曲でも無理やり聞かせるのはいかがなものでしょうか。
人に見せるだけが音楽の存在意義では決してないと思っています。
まとめ
言葉は現代社会においては尚更に我々人類の表現手段の代表格です。しかし、誰しもどこかで知っているように、言葉では足りない事柄もたくさんあるものです。
暴力をやめて対話に転換を果たすことは重々承知であって、それも大きな成果なのでしょう。
一方で、対話を重視してゆく中で、「論理」とか「理屈」こそが言葉であるという傾向を感じざるを得ません。「論破」などという言葉がそれを象徴するかのようにです。
極端に言えば、論理的な言葉を使えなければ負けているとでも誤解してしまいそうな風潮を感じるわけです。
こんな時は、人は歌を歌いたくなるものではないでしょうか。
昔、治療と言えばその方法は音楽だったと聞いたことがあります。いつの間にかそういう発想は現代医学の中にはほとんど見当たらなくなりました。