人は生きる中で、多くの出来事に直面します。楽しいこともあれば、耐え難い悲しみに遭遇することもまた起きうることです。
その際に生じる我々の動揺や混乱は大きく、時に、日常生活上の事を中断せざるをえないような場合さえあります。
しかし、やがてその大きなショックの後に、また日常へと戻っていくこともよくあることです。
整理に時間をかけたい気持ちは認められない?
しかしながら、そのプロセスは個人個人によって異なるものでもあります。ある人には一時的な混乱を呼ぶ種の事柄であっても、ある人にとっては、存在そのものを揺さぶられる出来事になる可能性があります。
そのため、その事柄に関する気持ちの整理も人によって必要な時間は異なるのではないでしょうか。2週間程度の時間を要する人から、数年かけて徐々にという人も当然あるでしょう。
誰かの死を考えた時にでも、我々は、葬儀を行い、その後にも49日や、1周忌や3回忌などを長い時間をかけて行います。(昨今は段々と省略されることが多いようです。)7年、13年と法事は続きます。かつての社会には、自然と、気持ちを整理する時間が確保されていたのかもしれません。
途切れずに動き続ける社会
このような中で、生まれやすい葛藤は周囲との時間差や、絶えず社会が動き続けているという現実があるからではないでしょうか。
先に整理のついた周囲の人たちは、いつまでもそのことに時間を使っても仕方ないとさえ言うことがあると思います。あたかも、それが悪い事であるかのように聞こえもします。
- いつまでもくよくよしていては故人が悲しむよ
- 早く自分の生活を元に戻すことが先決ですよ
- 終わってしまったことはどうしようもないのですよ
- こんな時にでも、働いていかなければどうなるのですか
- 気晴らしでもしてはどうか
このような言葉が、幾つも飛び交うこともあると思います。
時間を必要とする人には、非常に心地の悪い時間となることでしょう。
効率性や経済性が優先されればされるほど、この傾向は強くなるのではないでしょうか。
とにかく直視すればいいものではない
よくありがちなことに、そのことと真っ向面から直面し続けるようなやり方です。これは時が熟したときにはあるタイミングで意味を持ちますが、決し無理に直面することはお勧めしておりません。直視というのは傷口をえぐるような性質を持っているのです。
とにかく前向きには辛い
近い発想ですが、とにかく気持ちを前向きにもっていこうとするのも難しい事があります。
あとからドーンと疲れを感じるかもしれません。
気をそらすは、あったら使いたい
逆に、気をそらすことは、納得はいかないかもしれませんが、もしあったら使って良いと思っています。一日中働き続けられる人がいないように、一日中直視し続けるのは大変な事です。
お風呂に入っている時間でも、誰かと話している時間でも、一時でも気をそらせるのは必要な事ではないでしょうか。一日で直視するのではなく1週間かけて直視するという手もあってよさそうです。それは、コーヒーを淹れて飲むくらいの時間であっても貴重な事です。
カウンセリングは、自由に使える時間
このように考えてゆくと、カウンセリングの場や時間は、意味を帯びてくると思います。
つまり、日常の中では行いにくいことが、気兼ねなく行える場所であるからです。
時間・料金は決まっていますが、カウンセリングの中では、整理のつかない気持ちについて、十分に労力を割いても自由です。
その人に必要な期間、いつまでもそのことに時間を使う事が自由な場所です。正当なことを行っているという意味では、臨床心理士という大学院修士課程をベースとする専門家が担当者であり、1万円の費用を要するという事実の重要性を感じて頂けるでしょうか。それほどに重要な意味を持っている事柄であるのです。
言い換えればカウンセリングは、かつての習慣や文化が自然と備えていたことを、形や形式を変え個別に行っていることとも捉えることができそうです。
まとめ
何かの出来事に対する受け止め方は人それぞれです。
また、その気持ちの収め方もそれぞれになります。
葬式で泣いた人、泣きたくても泣けなかった人、どちらもそれぞれなのです。