便利さを手に入れることは何かを失っている側面も持っている

コンビニエンスストア カウンセラーの独り言

我々の文明社会では、進歩の方に目が向きやすいものです。生活が便利になるものが開発されたら、そこに意識が集中するのは当然のことだと思いますし、それまでの何かから解放されるときでもあるので、多くの人が喜びます。

時々話題になることですが、このような時、一方で我々は何かを失ってもいるようです。

便利になった代わりに失ったもの

例えば、食品は数十年前と比較して、多くの多様な商品が開発・浸透されてきました。

夏に冬の旬な物を手に入れることもできれば、その逆も可能になりました。コンビニエンスストアに出掛ければ、たいていのものは手に入りますし、飲食店では多くのメニューが用意されています。いつからか我々の生活に浸透したカップ麺や缶コーヒー類は特に画期的だったと思います。

目玉焼きが売られている光景はまだ見たことがありませんが、秋刀魚が既に焼かれて売られている光景は目にしたことがあります。

秋刀魚の煙を失った

良い匂い

秋刀魚が既に焼かれている時、我々は秋刀魚を焼くときに出るたくさんの煙を見ることはなくなります。あの煙の扱いは確かに厄介ですが、あの煙によって食欲を大いにそそられていたようにも思います。秋刀魚を早く、手軽に食べたいという気持ちには応えてくれますが、どこか秋刀魚の魅力を失っている面もあるのでしょう。(焼いた秋刀魚を売ることが悪いと言っているのではありません。)

食べる体内準備

もう少しつっこんだ事を書いてみると、秋刀魚の煙は、食べる準備になっていた可能性はないでしょうか。いい匂いがすると、思わず唾が出るなどという経験があると思います。これは体内の分泌系等に何ら作用しているように感じられ、つまりは消化が良くなるのではないかと思うところです。

既に焼かれた秋刀魚を食べる時、この体の準備がなされないまま胃に到達するなどと考えると少し怖くもなります

セルフレジの導入で人間同士が接触する機会を失った

セルフレジ

最近、お店の人と世間話を交わした記憶を持つ方がどれくらいになるでしょう。

かつては個人商店が主流で、だいたいは顔見知りばかりのお客さんでした。しかしながら、昨今では、セルフレジが増えまったく会話せずに買い物が完結するようになりました。

むしろ話しかけると忙しそうで、気の毒になる事もあります。(関連:忙しそうで店員さんに話しかけられない )

なにやら取るに足らない会話をしたくなるときがあります。例えばそれは、あのカボチャはもうないのですか?などと、もうないことを知っているのに聞いてみたくなります。これはコミュニケーションを欲していたが故なのでしょう。

売り買いに際しての感謝の念は薄れた可能性がある

お譲りいただく、お求め頂く、これが売買のかつての関係だったと思います。さらに遡れが物々交換の時代もありました。とにかく物を持っていけば交換してくれたとは思えないところがあります。

「あんたには譲ってやらない!」、<そこをなんとか・・・>、「あんたにゃ負けたぜ」などとこんなせめぎあいもあったでしょう。

本当のところは、物を手に入れることは、簡単な事ではないと思います。

農家の人の苦労や、運搬する人・・・などなどの苦労を想い食事の度に毎回祈っていた

今でも、食事の前に祈りをささげる方はいると思います。短くいただきます位は、日本文化に残っています。(一人暮らしでもやっているでしょうか?)

この米粒一つが、自分の目の前に到着しているその事実は、背景にどれほどの人々の労力がささげられたかわかりません。お金を払えばよいでしょという話ではないのです。

便利になればなるほど、この苦労への感謝の念は失われているように思います。

忙しいので毎回そんなことはやってられないというのが現代社会のもっともな理屈です。

本当に美味しいものを失った

ありふれた極上の落花生

食べられればいい、栄養が取れればいい、と合理性を追求していくと、食生活は非常に幅の狭いものになります。

日本には四季折々の食材が溢れ、その調理法も千差万別、八百万なのです。

しかしながら駅前を見渡せば、ほとんどコンビニやチェーン店です。批判しているわけではありませんが、私はもっとおいしいものを知っています。

あの落花生を食べずにして、本当にいいのですか?と思うところです。

贅沢とは異なる話であると思っています。

カウンセリングにおいても重要な視点

このような視点はカウンセリングにおいてもどこか大事なものだと思っています。カウンセラーが何かを肩代わりしてしまう時に、CLは自分でそれを行う機会を奪われてしまっているとも言えるわけです。

厳しくすること

時に、子育てや教育において厳しくすることが悪いこととして挙げられるものですが、厳しいことは全く否定されるべき事でしょうか。

極端な言い方になってしまいましたが、多くの人が知るように、やはり厳しさにも意義が十分あるもので、厳しさを抜きに、子育てを進めることは非常に困難なことではないでしょうか。

もし、まったく子供たちが厳しさを経験しなかったら、その後どのようなことが想像されるでしょう。生きていくだけでも我々はたくさんの苦難に出会うものです。どんんなに気を付けていても、病気になることもあれば、仕事を失うこともあります。

厳しさを体験しないままで、このような苦難に向きあえるものでしょうか。

このように考えると、厳しさをなくすことは、子供たちがたくましさを育む機会を奪ってしまいかねないと言えそうです。

まとめ

なにげなく捨て去ってきたこと達が、一体どんな機能を備えていたのか、今となってはわからないこともたくさんあります。

いわば生態系のように、何か一つでも欠けてしまうと全体の調和をたちまちに崩してしまう事があり、そうした発想からすると怖くもあります。

今、何を手に入れて、何を失ったのか、これは意味深な話に思えて来たのです。

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